歴史の影に偉大なミューズブランシュ・セルバBlanche Selva
               (1884-1942)


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セヴラックとブランシュ・セルヴァ
ブランシュ・セルヴァはパリのスコラカントルム音楽院ではセヴラックの師であり、その後も親交を重ね、音楽上の良き相談相手でもあった。彼は組曲セルダーニャの作曲途中に彼女に助言をもとめています。第4曲”リヴィアのキリスト像の前のラバ引きたち” はもともと もっと長いものでした。しかし、ブランシュは 「そんなに長くなくていいのよ!」と言って作曲家は諭されたと書簡に残っています。

彼女自身作曲もし、その作品は最近リリースされたCDで聴くことも出来ます。セヴラックの休暇の日々第2集の2曲目以降の曲は、彼女の補完によるものです。彼女はパリで初のJ.S.バッハの鍵盤作品全曲による連続演奏会を催して話題になり、多くの生徒を教え(時には無報酬で!)教育者としても名が通り、ピアノのメーソードを書き、リカルド・ヴィニエスとならんで当時の作曲家たちの作品の初演を担っていた膨大なレパートリーを持つピアニスト。貴重な自主制作のCDによってブランシュ・セルバの演奏を聴く事ができますが、音に透明感があり、良く歌い、よく伸びて何とアーティスティックな解釈!
カタルーニャ出身のミューズ(音楽の女神)はどんな一生を送ったのでしょう!その周りにはどんな芸術家たちが集ったのか・・・彼女のピアノレッスンはどんな風だったのか・・・


Une Muse Oubliee ブランシュ・セルヴァ Blanche Selva 1844年-1942
 (忘れられた女神~偉大なピアニスト、作曲家、教育者)

<ヴァンサン・ダンディとの出会い>

ブランシュ・セルバは1884年1月29日にolientèle du midiに生まれる。
小さい時から音楽の才能に恵まれるが、なかなか良い教師には恵まれず一家はリモージュ、そしてパリへと居を移す。そこで、ようやくひとかどのよき先生に恵まれ、9歳でパリ音楽院の準備をする学校に入れる年齢に達する前であるのに入学を許される。
しかし、当時のパリ音楽院の雰囲気は彼女の目指すものと違い、そこから自由になりたくて、パリを離れてスイスのジュネーヴへ移った。
ローザンヌでの初リサイタルは13歳の時だった。その後、シューマンのコンチェルトも演奏している。

 「運命の出会い」

14才の時に、のちに彼女の運命を変えるであろう出来事が起こる。
1898年、ヴァンサン・ダンディのフランスの山人の歌による交響曲の上演をきいて、その作品に流れる深い感動の厚みと抒情性に感激し、これを作曲した人に会いたいと思うようになる。
 なんども娘にせがまれて、父親は出来うる限りの努力をはらってダンディの居場所をつきとめる。その夏ダンディは、アルデッシュ(リヨンから400キロほど南の避暑地)にある彼のFaugs城で休暇をとるのだという。
1899年の8月6日、ブランシュはダンディと会うことがかなった。
それは、Valenceヴァランスであった。
おずおずと恥ずかしそうにピアノに向かったブランシュは、ダンディのために弾き始めた。
 その演奏を聴いて、ダンディは驚いた。
「並外れた才能に恵まれ、非の打ちどころのない音楽性をもつこの若いピアニストに、私は夢中になった」と、同僚 Pierre de Bréville に書き送った。
それ以来、この二人の固い友情が続いてゆく。
 彼女の作曲の腕前についても、「きわめて鋭敏な才能をもっている」とスコラの教授Guy Lioncourtに説明する。
 ピアノについても、またその求めるレヴェルの高さと自らに厳しい姿勢、若い女性ではあるけれど、卓越した芸術的センスとピアノ演奏の知識に感動したダンディは、彼女をスコラカントルム音楽院の教授に任命する。 このとき、彼女はわずか18才であった。
ブランシュは1918年コルトーによって設立されたエコール・ノルマル・ド・パリでも教え、1920年パリ国立音楽院の審査員にもなっている。彼女の家は、まるで音楽院のようで、ピアノのほかにもソルフェージュや和声、そしてグレゴリオ聖歌を教えた。彼女の丁寧な指導は、フィジカルなリズムの体得、脱力と重力を用いたテクニックをよりどころとした。1915年から1923年にかけて執筆された7冊のピアノ教則本に詳しく書かれている。L’ouvrage Enseignement musical de la technique du piano
彼女の教育理念の根底には、まずピアノで「アート」をすることなのである。彼女は当時のフランスの、悪い教育に腹を立てていた、無分別で盲目的で、うぬぼれた、達成主義で芸術的な「アート」というものを知らないと言って。
ピアノ演奏は、解釈とか作曲家がどう意図したのかなんてものはとっくに超越して、トータルとしてのアート「美」に身をささげることが芸術のはず。練習はアーティスティックに練習するのであって、ヴィルトゥオーゾというものはそれ自体「美」に奉仕する道具のひとつとしてのヴィルトゥオージティであれと強調している。

また、パリの出版社はデオダ・ド・セヴラックの伝記執筆を依頼する。もちろん、彼女は快く引き受けている。

カタルーニャの血筋であるブランシュは、年を追うごとに、生まれ故郷のカタルーニャの地に心が惹かれるようになる。その後スコラカントルムを辞め、1925年、ピレネー山脈を越えたカタルーニャ地方の首都バルセロナにブランシュ・セルバ音楽学校を設立する。
彼女のピアノの指導は、型から入るのではなくて、いかにピアノを体の一部として「飼いならすか」ということに重点を置いた。
彼女がスコラカントルムから去ってしまったこと知り、ヴァンサン・ダンディは大切な人物を失ってしまったと後悔した。
そして、後年ピアニストである彼女にテーマと変奏、フーガや歌等の作品を献呈する。

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